世の中にはさまざまなシゴトがあるけど、なかには就職情報サイトではなかなか見つけられないものも…。そんなちょっと意外なシゴトについている社会人を紹介します。
体と心を整えるプロフェッショナル
整体師
杉山チカさん
プロフィール●香川県生まれ。東京女子大学現代文化学部言語文化学科卒業。在学中よりアルバイトで整体院に勤務し、整体師の道を歩みはじめる。大学卒業後、総合病院の総合職を経て、2008年4月に東京・神楽坂に「café de mille 調和健康院」を設立。痛みや病と闘うことなく、心地良さの中で「治っていく身体づくり」を目指した、「機嫌よく生きる方法」としての整体法を提言。気功を取り入れた独自の整体法を確立し、幅広い世代の顧客から信頼されている。
ホームページ https://www.mille-sakuri.com
総合病院の事務職を退職。親の反対を押し切って、24歳で整体院を開業
――大学では言語文化を学ばれたそうですね。
もともとは医師になることを親から期待され、私もそのつもりでした。でも、頑張りきれなくなったというのが正直なところです。医師になるには大学受験も大変ですし、大学でもハードな勉強をする必要があります。医学部で頑張っている兄の姿を見て、兄のように勉強が好きな人にはかなわないなと思ってしまったんです。こんなふうにお話ができるのは、時を経た今だから。医学部受験を断念したのは私にとって大きな挫折であり、当時は誰にも自分の気持ちを言えませんでした。
子どものころから体や健康にはずっと関心があって、雑誌で関連記事を読みふけり、中学時代には友人のお母さんと情報交換をするほどでした。マッサージやツボ押しを自分で試してみることも好きでしたから、医学部進学をあきらめたときに、鍼灸など東洋医学を専門学校で学ぼうと考えましたが、親に「大学には行ってほしい」と言われ、少しでも興味の持てそうな分野を探し、大学の言語文化学科に入りました。
――整体師を志したのは?
大学1年生のときに整体院でアルバイトを始め、そこで「野口整体」に出合ったのがきっかけでした。「野口整体」は昭和20年ごろに野口晴哉先生(故人)が提唱した整体法で、体のゆがみを正すだけでなく、心と体を一体のものとしてとらえ、気功のような「愉気」と呼ばれる方法で心身の状態を整えていくことが特徴です。
現在、「整体」というのは明確な定義がなくて、身体にボキボキと強い力を加えるものが整体法と思われがちです。私自身にもそのイメージがあったのですが、「野口整体」では強い力を加えて施術を行うことはほとんどありません。体というのは筋肉や骨だけではなく、人の感じ方や感受性が形作っているんだという考え方がとても自分にしっくりと来ました。それで、大学の授業がない時間はほとんどを整体院での施術と整体関連の勉強に当て、「野口整体」を中心にタイ式マッサージなどさまざまな技術や考え方を学びました。
アルバイト先の整体院で働いていた整体師のうち、学生は私だけでした。整体師というのは特別な資格がなくても名乗れる仕事である一方、経験と実力がモノを言う世界。若くて、女性であることはハンデでしたから、そのぶん腕を上げなければと肝に銘じていました。年齢もお客さまに悟られないようにしていましたね。30代のお客さまとの会話で「同世代くらいよね?」と問われると、「ええ、まあ」と言葉をにごしたりして(笑)。平日午前中は大学の授業があり、施術は午後しかできないので、通学通勤の移動中にイメージトレーニングをしてウォーミングアップをしてから施術に当たるようにしていました。
そのうちに指名してくださるお客さまの数も増えていきました。好きなことを学び、得た知識を実践して、人に喜ばれる。これほど楽しいことはありません。毎日整体のことだけを考えて生きていけたらと大学中退して整体師として働こうとしましたが、またしても親に猛反対されました。話がまとまらず、まずは半年間休学。その間は週5日整体院で働きましたが、約束通り復学し、当時は自分の意思を貫くほどの勇気が出なくて、卒業後は都内の総合病院に総合職として就職しました。親はとても喜んでくれました。
――そこから、どのような経緯で開業されたのですか?
総合病院では経営マネジメント部門に採用され、内定時は広報関連の仕事に配属されると聞いていたのですが、組織改編があり、実際に担当したのはレセプト(診療報酬明細書)管理など事務がメインの仕事でした。この事務作業が自分でも驚くほどできなかったんです。一生懸命やっているつもりなのにできなくて、周りに貢献できないことが申し訳なくて。
一方、週末は細々と整体を続け、友人や知人に施術をしていました。そこで喜んでもらえることや、「いつかは整体院を開きたい」と不動産屋さんで物件を探すことが心のよりどころになっていたんです。そんなあるとき、条件に合う物件が見つかり、内見をしたんですね。ちょうどその翌日に異動の話があり、お受けするとしばらくは辞めづらくなると咄嗟(とっさ)に思い、口をついて出たのが「辞めることを考えているんです」という言葉。昼休みに不動産屋さんに「あの物件、借ります」と伝え、勢いで開業することになってしまいました(笑)。24歳のときです。当時はひとり暮らしだったので、軌道に乗るまで親には言わないつもりでしたが、あるとき話してしまい、今では理解してくれていますが、しばらくは勘当状態でした。
お客様の体が必要としていることを感じ、いかに答えるかに意識を集中させてきた
――いきなり開業とはすごいですね。
実は、大学在学中、整体師の先輩の開業をお手伝いする機会がありました。おかげで開業の流れは把握していましたが、整体院の経営について気軽に相談できる相手はおらず、当時は企業経営者の本をとにかくたくさん読みました。とくに励まされたのは、松下幸之助さんの「その信念が真理であり、正しいものである限り、商売は繁盛を続けるに違いありません」という言葉です。ゼロからの出発で、集客の目処はなく、不安でしたが、その言葉を信じたんです。自分が整体師として必要とされることをやっていたら、お客さまはきっといらっしゃるって。
――開業にあたり、宣伝は?
チラシを書いた以外は、店先に小さな看板を出しただけでした。ただ、当時住んでいた町で開業をしたので、よく通っていたカフェの店主さんが「今度、整体院を開くんだって」とお客さまに話してくださったり、地域情報を掲載するWebサイトの編集者さんをご紹介いただいて、記事に取り上げてもらえたりもしました。あとは、意外にも、「看板を見て来ました」という飛び込みのお客さまもある程度の数いらっしゃいました。
当時の自分に課していたのは、全身全霊で施術をすること。同じお客さまであっても、お客さまの体の状態は毎回違います。その都度、お客さまの体が必要としていることを感じ、いかに応えるかに意識を集中させてきました。これは今も変わりません。
心に残っているお客さまの言葉は、「整体を受けはじめて、人をうらやまなくなった」
――技術や知識はどのように磨いていらっしゃいますか?
整体の勉強会に参加することもよくありますし、常に「ひと皮むけたい」という思いがあり、いろいろな種類のマッサージを習いに行ったり、あるときは、感覚を磨こうとバリ島のシャーマン(呪術師)に会いに行ったこともあります。こう話すと、少し怪しげですが(笑)。
ただ、技術や知識を学ぶのは、私にとって趣味のようなもの。好きだからやっています。野口裕之先生(野口晴哉氏の次男)の講座を受ける機会もあるのですが、裕之先生は「体が教師だ」とおっしゃっており、その通りだと思っています。整体師として最も大事なのは、直感力と観察力であり、知識に頼ってしまうと、それらの力が鈍ってしまう。ですから、お客さまの施術をさせていただくことが一番の成長の機会です。また、自分自身がお客さんとして整体やマッサージの施術を受けるのもとても学びが大きいと感じています。
――どのような資質を持った人が整体師に向いていると思われますか?
直感力や観察力に加えて、忍耐力のある人だと思います。我慢をするということではなくて、楽しくやり続けられるという意味での「忍耐」です。ここ数年は整体を教える機会もあって、生徒さんによくお話しするのは、整体って触感の世界なんです。触感ってすごく曖昧なんですよね。学んでも、曖昧なものが一気にクリアになることはなくて、曖昧なまま少しずつわかっていくしかない。ゴールがないんです。曖昧さを抱えながら日々成長していく忍耐力が必要なので、急いで結果を出したいというタイプの人にはつらい仕事かもしれません。
――「整体師を続けてきてよかったな」と感じるのは、どんなときでしょう?
たくさんありますが、最近、とくに印象的だったお客さまの言葉がありました。長く通っていただいているお客さまなのですが、いつもの会話の中で、「整体を受けるようになって、人をうらやむことがなくなった」とおっしゃったんです。体が整うというのはそういうことなんだな、と整体の意味を改めて学ぶ思いでしたし、そのお手伝いを少しなりともさせていただいていることをとてもうれしく感じました。
整体院を開業して2020年4月に13年目を迎えますが、ありがたいことに現在のお客さまの過半数が10年以上通ってくださっています。お客さまの年齢や職業はさまざま。整体師の仕事をしていなかったらお会いする機会がなかったような方とも、整体を通して出会うことができ、楽しいです。
――最後に、今後の展望をお聞かせください。
整体院に「café de mille 調和健康院」と名づけたのは、カフェのように気軽に入れて、くつろげる場にしたいという思いからでした。今は整体院もどんどん変わってきていますが、開業当時は少し無機質な空間で、10分ほどの施術をするというスタイルの整体院が主流でした。短い時間で満足のいく施術ができるからこそのスタイルです。一方、私自身が顧客として施術を受ける時は、10分、15分だと効果はあっても、少し物足りない気がしましたし、空間の雰囲気も若い世代には入りにくいように感じました。だから、1回60分という設定で、カフェのようなインテリアにして、若い人たちにも整体を受けてもらえたらと考えて開業したんです。
現実にはまだ、10代や20代の方々に気軽に来ていただけているとは言えません。私一人でやっているという組織体制上、チェーン店のようには料金を下げることができないことも理由のひとつです。すぐに状況を変えるのは難しいですし、整体院での施術という直接的な手段ではないかもしれませんが、将来的には若い人たちに整体に親しんでいただける場を何らかの形で実現できたらと思います。
※本文は2019年取材時の内容で掲載しております
取材・文/泉 彩子 撮影/鈴木慶子